駒場祭2021書道パフォーマンスレポ (ほぼ精神面)

高校の文化祭でクラス企画の準備をするときは、仕切り役の子に「何かやらなきゃいけないことある?」と聞いて、ひたすら細々とした雑用をやるタイプ。間違っても自分でトップに立って仕切る人間ではない。そんな自分が、駒場祭2021の書道パフォーマンスで班のリーダーを務めることになった。


そもそもこれまでのサークルに関する思い出を振り返ると、苦い記憶しかない。与えられた役回りを投げ出してしまって逃げるように辞めてしまったり、仕事を引き受けすぎて潰れてしまったり。色々な人に迷惑をかけてしまった罪悪感と、やりたいと願っていたことがあったのに夢破れてしまった悲しさが、ずっと胸の奥に張り付いていて、度々自分を苦しめていた。学祭での書道パフォーマンスは一度だけやったことがあったが、かろうじて本番までたどり着くことはできたものの、練習を休んだことも何度かあったし、基本的には他のメンバーの指示待ちで助けられてばかりだった。そんな自分がリーダーなんかやって大丈夫なんだろうか。またみんなに迷惑をかけて逃げてしまうんじゃないだろうか。私みたいなクソ人間にそんな大役を担わせて大丈夫?弱気になり尻込みせざるを得なかった。


「自分が声をかけないとなかなかことが始まらない」という今まで経験していなかったような状況に戸惑いと不安を覚えながらも、約1ヶ月と少しに及ぶパフォーマンスの企画と練習が始まった。書道パフォーマンスは通常分かれた班の参加者の顔合わせと、曲決めから始まる。曲を決める際に私は「なんか流行ってるし、髭男は前に流れた企画でも出てたし」くらいの軽いノリで、Official髭男dismの「Cry Baby」を提案したのだが、それが僅差ながら投票でそのまま通ってしまった。ちなみに東リべは全く観たことがない。


曲が決まったら、どんな紙に何をどう書くか、という構成を決める過程に入る。特に書く文言を決めるにあたっては、ある程度歌詞を解釈してイメージを掴む作業が重要になる。それまでちゃんとは聴いていなくて「力強い曲だなぁ」としか思っていなかったCry Babyの歌詞を初めてしっかりと読んで、私は気づいた。この曲は「これまで負け続けてきた主人公が『もう逃げない』と立ち上がり、リベンジを誓う」曲なのだと。


私のための歌なんじゃないかと思った。


もちろん傲慢な思い込みでしかないのだけれど、どん底とも言っていいような状況から這い上がろうとする曲中の主人公の姿が、自分の負け癖やコンプレックス、ネガティブさ、劣等感、そしてなんとかここから立ち上がりたい、逃げない自分になりたい、という気持ちと重なった。

 

書く文言が決まったら、誰がどこを書くか決めて、いよいよ本格的な練習が始まる。書道パフォーマンスといったら、お正月のテレビで見るような、大きな筆で大胆に文字を書くあれを想像する方が割と多いのではなかろうか。あそこまでではなくても、私たちの班も最後に大きな文字を書いてパフォーマンスを締めることにしたのだが、「誰もやらないなら自分が代わりに引き受けようとする」性分のせいで、私は上手いわけでもないのにトリの一番大きな文字を書くことになってしまった。頑張らなきゃなぁと思う一方で、自分の中の悪魔らしき何かが囁いてくる。

ーーそんなプレッシャーがかかるようなこと引き受けて大丈夫?また投げ出して壊して逃げ出して迷惑をかけて、その繰り返しじゃないの?


もう逃げない。あの頃の自分とは違うと証明したい。その声を振り払うようにひたすら字を書き、練習に励んできた。

 

 

書道パフォーマンスをするにあたって自分の一番の課題は、自分が最後までやりきれるわけがない、一度した失敗は二度三度と起こるに決まっている……と決めつけるネガティブな自分との闘いだった。1ヶ月半程度の練習期間のうち、やっぱり私には無理なのではないかと思い、家の中で子どものように泣き出してしまったことが2回あった。


1回目は確か10月中頃、練習期間ももうすぐ後半に入ろうとするときだった気がする。パフォーマンスの制作の進捗状況が良くなく、ちょうど授業で忙しいときやバイトの繁忙期と重なったこともあり追い詰められ気味になってしまって、「色々と忙しくてつらい。この調子だと前みたいに全部ダメにして途中で逃げ出してしまうんじゃないか」などと言いながらぼろぼろ涙が溢れてしまった。できるだけ心の中に隠していたコンプレックスの端がほどけて言葉になっていく。「確かに前はそういうこともあったね、でも今のみゅうさんはそのときと同じなの?違うでしょ」という言葉が痛々しいほどに突き刺さった。正直わからないけれど、今はもうあの頃の自分とは違うと思いたい。


進捗状況はずっと遅れぎみだったが、同じ班のメンバーや他のサークル同期の助けを借りつつなんとか練習を回し、本番こと撮影日が近づいてきた。ちょうど撮影日の1週間前、ようやくパフォーマンスらしい形になってきた頃に、知人が出ている、別の大学の学祭の動画を見る機会があった。布団の上で寝転がったままYouTubeのリンクをタップして、ぼんやりと演奏を眺める。こうやって日常の中で何気なく消費されていく学祭企画の背後に、学生たちが絶え間なく続けてきた無償の努力があることを、改めて実感する。

と同時に、あと1週間しかないのに「できない」と言ってパフォーマンスを投げ出して逃げる自分の姿が、なぜかありありとリアリティを持って浮かんできた。リーダーの自分が逃げ出したらどうなるんだろう。代役を選んで意外と普通に、何事もなかったかのようにパフォーマンスは仕上がるのかもしれない。もう諦めたくはない。でもあと1週間、自分は走り続けられるのだろうか。以前みたいに「無理」と言う自分が顔を出してくるのではないか………そんなことを考えているうちに、気がつけばまた涙が溢れ出てきた。ただこのときは、嗚咽し始めてから少し経ったらすぐに「大丈夫。もう逃げたくないから頑張る」と言えていたと思う。ネガティブの波から自分で立ち上がることを、少しずつ覚えてきた。

 


ところで、コンプレックスについて、近頃思うことがある。私は特に高校時代あたりからコンプレックスの塊で、J-POPで劣等感について歌われていたりするとつい聴き入って共感してしまうような人間だが、つい「好きな音楽の道で大成功しているバンドマンなんかに劣等感を歌われても説得力がない」と素直に受け止められなくなる。「僕には選べなかった人生と夢」なんて歌われても、才能があって音楽家として食べていけているあなたなんかにわからないだろうと。しかしそういう、人にはわかってもらえないようなコンプレックスを抱えているのがかなりしんどいことを、私は高校時代の経験から知っている。そもそも劣等感って、少なくとも私の場合は自分を「優れた人間」か「劣った人間」かに分けて、「劣った」側だと思った瞬間に、世間的な成功など関係なしに抱いてしまうものだ。有名なバンドマンにだって自分が「劣った人間」だと思ってしまうときはきっとあるのだろう。そして、私は特に高校生の頃から自分を「劣った人間」として位置づける負け癖がついてしまっていたというか、自分の「劣った」面や失敗経験にばかり光を当てて注視してしまうことがほとんどだったのだと思う。たとえ実際に自分ができない方だったとしても、光を当てなければ物事は見えないのだ。そんなことを言語化できたのは本番よりもうしばらく後だったが。

 


本番までの残りの1週間は、何を考えていたかあまり記憶にない。ただ、ここまで色々と頑張ってきたんだからやり遂げなくてどうするんだ、今までの過程を全部無駄にしてたまるか、みたいな意地で走り抜けたところがあったと思う。そしていよいよ本番こと撮影の日が来た。


なかなかリハーサルは予想通りにいかず、変更点もあった中で迎えた本番。「絶対成功させるぞ!」と言いながら円陣を組んだ。泣いても笑ってもこれで最後、一回きりの本番の前、私はほぼ緊張しないタイプのはずなのに脚の震えを抑えられなかった。何人かの観客(同じサークルの人々ではあるが)の前で、イントロが流れ始めた。脚の震えは止まらないままだったが、イントロを聴くとある程度は身体が自然に動き出し、練習のときの流れ通りに書けた。字を上手く書くのももちろんだが、この曲に込められた「闘志」「挑戦的な姿勢」を表現できるように心がけた。


ラストサビ、曲が終盤に入り最後の紙へ。いよいよ自分が大きい字を書いて締めるときが来た。最後の最後、何かが取り憑いたかのように意識せずとも身体が自然に紙に飛びついていた。上手な字ではなかったが、これまでの練習よりかなり躍動的に書けた。この頃には脚の震えは止まっていたというか、もう気にはならなかった。ただ目の前の紙と対峙し、筆を動かすだけだった。


曲が終わり、パフォーマンスも終わった。終わったあとコンパネ(紙を貼るパネル)の後ろに回ったらしばらく立てなくなった。緊張のあとの弛緩や、無事に終えられた安堵感ももちろんあったのだけれど、たぶん「自分も何かを最後まで成し遂げることができた」という事実が信じられなかったというところも少しだけあったと思う。

 


同じサークルの人などが読んでくださっている気はしないのだが、一応メッセージというか、思ったことを残しておきたい。

同じ班でパフォーマンスに取り組んでくれた皆さん。まずは頼りないリーダーについてきてくれてありがとうございました。練習の時期からミスもたくさんあったし、何より私の言葉にいつも伝わりにくいところがあってごめんなさい。皆さんの素敵な字やアイデアに私の方こそたくさん学ばされるところがありました。サポートの方もたくさんアイデアを出してくださり、遅れぎみだった状況をしっかりと期日までに仕上げ、事務仕事の面でも色々と助けてくださりました。感謝しかありません。何より、皆さんと同じ目標に向かい、一緒に書道パフォーマンスを作り上げられたことが幸せでした。何度言っても足りませんが、本当にありがとうございました。

当日サポートや観客として来てくださった皆さんもありがとうございました。当たり前ですがあなた方がいなければパフォーマンスは成り立ちませんでした。観客としていてくださった方々も、おかげさまで士気を高めることができ、感謝しています。

そして、サークルの内外を問わず、私の豆腐メンタルが折れそうになったときにアドバイスをくださったり励ましてくださったりした方々も、ありがとうございました。言葉は何を言うかももちろんですが、「誰が言うか」がかなり重要な部分なのではないかと思っています。あなたの言葉はあなたの背景や人となりがあるからこそ私の支えとなったのです。

 

 

書道パフォーマンスの何が面白いのか。上手く言えないが、まずは書道と音楽というかけ離れうるものが合わさったことによって起こる化学反応だと思う。文字や絵、歌詞、音楽が一体となって新たな世界を作り上げる。私のように音楽の素養がなく、自分で言葉を紡ぎ上げるような能がなくても、身体で想いを表現することができる芸術だ。

そして何度練習を重ねて上手くいっても本番でどのようにパフォーマンスできるかが全てであること、書き上げた紙はすぐに捲られて取ってはおけないこと、こういった刹那性が余計に想いの表現を引き立てるのだと感じる。

 


もちろんつらさも大きかったが、振り返ってみると案外楽しく、夢のような時間だった。未だに他班含め自分たちのパフォーマンスを見返してしまう。一応のリーダーとして最後まで作品をつくり上げることはできたが、ただ、それがきっかけで180°世界が変わるようなことはなかった。自信が全くつかなかったわけではないものの、相変わらず私はメンタルが弱いし、投げ出しそうな自分は度々見え隠れする。華々しい「リベンジ」ではなくとも、成功体験を繰り返して「最後までできる自分」に少しずつ光が当たるようにしていくしかないのだと思う。今回の書道パフォーマンスでの経験は、長らく眠って埃まみれで下手したら失われそうだった「最後までできる自分」にようやく光を差したものだったのだ。

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