恋と劣等感(前編)

「彼」とちゃんと出会ったのは、高校2年の4月のことだった。

 

わたしの出身高校は、進学実績も大したことがない地方の学校だったのにも関わらず、なぜか高2からの科目選択で「東大文系コース」と銘打って世界史と地理を両方履修できるようになっていた。中2の3月に東大を志し、東大文一に行って弁護士か国家公務員になりたい!と思っていたわたしは、迷わずその東大文系コースを選択した。他に東大文系志望の同級生がいるという話は聞いていなかったから、2年からは1人で授業を受けるのか……と寂しく思っていた。だが、いざ地理が開講される教室に行ってみると、そこにクラスメイトの1人であった彼がいたのだった。

 

それまでの彼の印象は、一言で言うと「変な奴」だった。中2・中3で同じクラスになったものの、ほとんど話したことがなかった。嫌われ者ではなく好かれている方だったと思うが、いつもなぜかいじられていて、ちょっと珍しいあだ名でみんなに呼ばれていた。寡黙なのに、陽キャでちょっとワルな男子のグループにいた。成績がかなりいいのに、提出物を出さずに割としょっちゅう呼び出されたりしていた。なんとなく得体の知れない存在だった。

 

そんな彼が東大志望だったことに驚きつつ、高校2年生としての生活、そして2人しか履修者のいない地理と世界史の授業が始まった。

 

最初は、教室に着いてから授業が始まるまでの5分弱の時間が、気まずくて空気の通りが悪いような気がして仕方なかった。彼はいつも地図帳を真剣に見ていて、近寄りがたかった。話しかけてみようかとも思ったが、わたしはコミュ障で自分から話を振るのが苦手だし、ほとんど関わったことがないから何を話せばいいのかわからない。手持ち無沙汰で、先生が来るのを待ちながらいつも目薬をさしたりリップクリームを塗ったりして過ごしていた記憶がある。なぜかホワイトボードだけは2人で協力して消していたが。

 

地歴の授業が始まって気づかされたのは、わたしは地理がとにかく苦手だということだ。そもそもの地理的な一般常識がないし、センスも絶望的にない。そういえば方向音痴だし、地図は読めないし、カナダの首都を長らくトロントだと思っていたし、浦和はなぜか神奈川県にあると思っていたっけ。それに対して隣にいる彼は、とても地理が得意だった。休み時間にいつも地図帳を眺めているくらいだから、もともと好きで適性もあったのだろう。世界地理に詳しいためか、当然世界史についても彼は理解が深かった。「クラスメイトに凄い奴がいる」くらいの話ならまあ「よし!自分も頑張ろう!」で済むが、2人しか履修者がいない授業となるとそうはいかない。自然と比べられる構図になって、指名されるたびに自分の出来なさやセンスのなさが浮かび上がる。テストの結果が出れば順位でどちらが上かすぐにわかるのはもちろん、平均点を見るだけで相手の点数までわかってしまうのだった。これまで優等生で通っていたわたしはそんな環境にギャップを感じて精神のバランスを崩し、5月末頃から少し学校を休みがちになった。

 

ずっと休んでいてはさすがにいけないと思い、なんとかして学校に復帰したときに驚いたのは、わたしが休んだ日は地理の先生が授業を進めずに待っていてくれたことだった。ありがたいことだが、わたしが欠席するせいで授業を止めてしまってはあまりにも彼に申し訳ない。先生や彼に迷惑をかけないよう、なんとかして授業に行かなければならない。そう思って気力を奮い立たせ、学校に行くようになった。逆に言えば、それだけが学校に行く意味だった。

 

夏休みに入る少し前から、授業の前後にわたしは彼に話しかけてみるようになった。話題は探り探りだったが、勉強の話やクラスの話など当たり障りのないものを選び、いいと思える話題が思いついた日にはできるだけ質問をしてみた。なんで声をかけてみようという気になったんだろう。気まずさを軽減して、気が重い地理の授業を少しでも楽しくしたかったからかもしれない。彼のことを知りたかったから、というのもある。なんであんなに地歴、特に地理ができるのか探ってみたかったし、変な奴としか思っていなかった彼の素顔にも興味を持っていた。あとは話しかけて彼の勉強を邪魔してしまおう、という邪悪な魂胆もあった。とにかく、少しずつ私は彼と会話をするようになっていった。彼は堅物だが意外とノリがよく、ユーモラスな受け答えで笑わせてくれることもあった。

 

夏休みが明けてからも、週に3回くらい授業の前後に彼に話しかける日々が続いていた。わたしは彼のことが好きなのかもしれない、と明確に自覚したのは、9月半ばの頃だった。祖父母の金婚式で近場の温泉旅館に来ていたのだが、足湯に入りながら、わたしは「彼は今どうしているんだろう、どんなことを思っているんだろう」とぼんやり考えていた。どうして人は恋をしたとき、それが恋だとわかるのかが不思議だ。彼のどこに惹かれたのかはよくわからないが、寡黙で堅物なのに話してみると意外と面白いというギャップや、2人で授業を受けているわたしにしかわからない顔があることがよかったのだろう。あとはなんと言っても、自分にないもの(有り体に言えば地歴の才能)を持っているところ。そういえばこの頃、「君の名は。」が公開されて大ヒットしていた。彼を誘って観に行けたらな、なんてうっすら思いつつも、彼が部活の友達と観に行ったと聞いて諦め、ちょっと悲しく思いながら家族で観に行ったという思い出がある。

 

10月になった。月の頭に期末テストがあった。テスト期間にふざけて「○○くん、手加減してよ〜!」と言ってみたら「△△さん(わたし)相手に手加減するわけないよ」と返してくれたのが嬉しかったり、テスト直前に試験範囲の確認のために深夜にLINEしてしまったら意外とすぐ返信が来て、その会話の終わりに「頑張ろう!」と言ってもらえたのを思い出して試験を頑張れたりして、「好きなのかもしれない」は次第に「好きなんだなぁ」に変わっていった。月末、待ちに待った修学旅行。わたしは地主神社で恋のお守りを買い、深夜の恋バナ大会で「○○くんのことが好き」とクラスメイトの女子たちに打ち明けた。女子たちは応援してくれたものの、修学旅行中は地歴の授業の前後みたいに話しかけるチャンスがなくて寂しかった。自由行動の日に、たまたま龍安寺ですれ違ったけれど声をかけられなくて悔しかったのを覚えている。この修学旅行のときに、彼が親しい友達に「実は△△さんのことが……」とこっそり明かしていたことを知るのは約1年後のことである。

 

11月。人に打ち明けると恋心は加速していくものだ。授業前後に話しかけるだけではダメだと思い、中間テストの1週間ほど前に、プライドをかなぐり捨てて彼に「地理がわからないから教えて」と頼み込んで、放課後の教室で机を並べてマンツーマンで地理を教えてもらった。たしか、教えてもらったのはテスト範囲になっていたアメリカの地誌だった気がする。自分で描いた下手くそなアメリカに、彼が教えてくれた都市の名前や地域ごとの主な生産物を書き込んだその時のルーズリーフを、わたしは後生大事にとっておいて時々にやにやしながら見返していた。恋は人を気持ち悪くする。そういえば「(彼の友達)がインフルエンザらしいけど○○くんは大丈夫?」みたいな要件でLINEしたときに、勢い余ってハートのLINEスタンプを送ってしまい、既読無視されたのもこの頃な気がする。

 

12月。クリスマスシーズンの到来だ。なんとかして彼に「クリスマス何するの?」という話題を振りたくて、女友達にどういう切り口で話を始めればいいか相談し、やや無理矢理ではあるもののクリスマスの話題にこぎつけた。彼女と過ごしたりはしないということがわかったが、だからといって「じゃあわたしと…」なんて誘える度胸はなかった。そもそも、わたしたちはただのライバル兼やたら授業で一緒になるクラスメイトってだけだし。この年のクリスマスは、女友達と3人でタコパをしてクリぼっちを慰めあった。

 

年が明け1月。あけおめLINEはしたが、ハートのスタンプは送らなかった。もう同じ過ちを繰り返さない。とはいっても、彼は鈍そうだなと見込んで何度も繰り返し好意がありますよアピールをしていたのに、彼は変な理屈をこね始めたりのらりくらりとかわしたりするばかりだったので、もうこれは脈なしなんだな、とわたしは思い始めていた。

同時に、この頃からわたしは「2年生の間に告白すべきか否か」と悩むようになった。というのも、わたしはあまりにも地理に苦手意識があったため、3年生から地理の選択をやめて代わりに日本史を取ることにしたからである。学校の授業で日本史を勉強していないことによる遅れを取り戻すため、塾で日本史の講座をとって猛スピードで進め、そのためには時間が必要だと判断して部活もやめた。地理をやめようと思ったのは、ずっと苦手なままで伸びなかったらどうしようという心配や、本番で失敗するのが怖いという不安があったからではあるが、彼と常に比べられて劣等感を覚えるような環境から少しでも逃げ出したかったから、という側面もあった気がする。わたしが世界史・日本史選択になったら、2人だけで受ける授業は3年生からほぼ半分になり、もしかしたらこれまでのように授業前後に気軽に声をかけられるような環境ではなくなるかもしれない。だったらいっそ思いを伝えるべき?いや、脈なしだし世界史の授業は3年生になってからも2人きりなんだよ、気まずくなったらどうするの?でも今のままじゃ彼のことで頭がいっぱいで勉強に集中できない。なら告白して振られれば諦めてすっきりできるんじゃない?…こんなことを延々とぐるぐる考えていた。一方で模試やテストでは相変わらずライバルとして競い合い、バチバチやっていたのが不思議である。ただ、この頃には地理の授業限定でだんだん優等生のプライドみたいなものが抜けてきて、先生に「地名覚えるの苦手なんです〜」とか「ヒントください!」とか言えるようになってきた。

 

……後編へ続く。

片想いの話

片想いって綺麗かもしれないな、と最近思う。

 


片想いをしているときって、相手を見つめることに集中するばかりで、自分はそこに存在していないようにすら思える。「素敵なあの人」というのが前面に出てきて、眺めている自分はそもそも意識の中にお呼びでない感じ。けれど両想いになると自分が前に出てきてしまう。「こうしてほしい、ああしてほしい」というエゴが生まれてくる。


最近、ある人に片想いしていたときの日記を見返すことがあった。「今日は会えて嬉しかった」「こんな言葉をかけてくれた」「こういうところがかっこよかった」みたいな、なんとも無垢な言葉が並んでいてむず痒かった。今の私は求めてしまってないものの方に目がいってしまう。あの無垢で純粋な状態には戻れないのだろう。


別に片想いが全部綺麗とは限らなくて、思い返せば、綺麗だった片想いもあるし、汚れてしまった片想いもあった。「付き合いたい」とか「手を繋ぎたい」とか、相手にこうしてほしい、自分の方を振り向いてほしい、という気持ちが芽生えた瞬間に片想いは綺麗ではなくなってしまう。相手が自分のことを同じように好きではないことにモヤモヤして、苛立ってしまう。欲まみれの自分が嫌になる。


これまで何度か人を好きになってきた私には、ただひとつ「あれは綺麗だったかもしれないな」と思い返せる片想いがある。好きな人の恋愛対象におそらく私が入っていないだろうということが、最初からわかっていた片想いだった。


あの頃、相手が自分のことを好きになってくれないのなんてわかっていた。でも好きな気持ちは変わらなかった。本当に、本当に好きだった。声をかけてもらえたり、偶然隣にいたりできるだけで嬉しかった。ちょっとでも優しくしてもらえたら、それはもう喜んで日記に書いたものだ。なんでそういう期待をしていなかったのに贈り物をしたり、メッセージを送ったりしたのだろう。未だにわからない。恋愛的な好きじゃなくても、相手が自分のことを人間的に好ましいと思ってくれて、これからも会ったり話したりできればいいかな、と思っていたような気もする。


いや、でも相手の中のone of themから特別な存在に昇格したくて、私はちょっとだけアプローチをしていたのではなかろうか。別に特別な存在になんてなれなくて、one of themのままだったけれど。そう思うと自分は欲まみれで、片想いはやっぱり汚い。恋人になれないのはわかっていながら特別な存在になりたいと思う行為は、恋人になりたいと願う行為以上に強欲で無茶な気がしなくもない。もう眺めているだけの無欲な恋では満足できない人間になってしまったのだろう。


マッキーじゃないけど、もう恋なんてしたくないとすら思う。自分の汚い面や強欲な面をまざまざと見せつけられることになるから。今、なんだか「優しい人が嫌い」という気分だ。もっとちゃんと言うと、本当はみんなに優しいのに、その優しさが自分にだけ特別に向けられていると、ごく自然に勘違いさせてしまう人が嫌いだ。好きになってしまうから。欲まみれの自分を自覚させられて嫌になるから。心に引っかかって、ずっと忘れられない人になってしまうから。

 

どうして付き合ってからの別れを歌った失恋ソングは世の中に溢れているのに、破れた片想いを歌った失恋ソングは数少ないのだろう。あの頃の恋とは明確に違うけれど、ほんの少しの、微妙にモヤモヤしてどうしようもない気持ちをうまく言葉にできなくて、なぜか捨てきれない。

学校ってしんどかったな、という話

中学とか高校って、今となってみればなかなかにしんどい場所だったな、と思う。

 

12歳のとき、わたしは親元を離れて下宿生活を始めてまでして遠くの中高一貫校に進学した。前例はほぼなく、知り合いがまったくいない中に飛び込んで、環境が大きく変化した。一学年の生徒数は12人から90人へ。生まれて初めて「クラス分け」というものを体験した。クラスの中でも2~3人が1つのグループを形成して、そのグループでトイレに行くだけでも一緒に行動すること、グループごとになんとなくカーストみたいなものが決まっていることといった、当たり前のように感じられる事柄も中学で初めて知った。わたしはただでさえ元々の知り合いがいないのに友達作りで乗り遅れてしまった。幸いにしてなんとかグループに入ることはできたが、学校行事やグループ学習の度に「誰と行動する?」と悩まされたことを思い出すと、今でも胸がどきっとする。あの頃はなんとしてでも、一人ぼっちになりたくなかった。一人ぼっちの寂しさよりも、一人ぼっちでいることによる周りの目の方が怖かった。

 

大きないじめや問題行動はなく、平和な学校だったと思う。ただ、みんなまあまあ賢かったためか、いじめにならない範囲でターゲットを攻撃する生徒のグループはいた。ギリギリ言いつけられたり問題になったりしないようなラインを攻めてくるのだ。いまいち言葉で表現し難いのだが、わたしの体験としては中1・中2の頃にこんなことがあった。男子数人のグループでわたしの話をして、オエッと吐くジェスチャー。わたしの机の上にわざとグループのメンバーの荷物を置いておいて、届けると嫌そうにする。体育の授業中に待ち構えていて、わたしが近づくと声を上げて走って逃げる。髪を結んでいたら、近くにいた男子に「汚いからやめて」と言われたことなんかもあった。こんな風に行動に出されなくても、そういう男子と授業で同じグループになったりすると、明確に避けられたり他の人より冷たくされたりした。

 

今となってみればそんな奴ほっとけ!大したことじゃない、と思えるが、当時のわたしにとってはやっぱりつらくて、美術室の入り口で泣いたことも、実家から下宿に戻る車の中で「学校に行きたくない」とごねたこともあった。わたしのどこがいけないんだろう、あの男の子たちに何か悪いことをしたわけじゃないのに、と思い悩んだ。とりわけ田舎出身で芋くさいから?気弱そうだから?性格に変わったところがあるから?協調性がないから?ブスだから?なんとか状況を変えられないかと自分なりに努力をした。髪を伸ばして結び方を工夫してみたし、肌が汚いのを治そうと化粧水を塗って毛穴パックをした。できるだけ顔を見られたくなくて、学校でずっとマスクをしていた時期もあった。自分の顔が醜く感じられてメイクを始めたのも中2の頃だった気がする。無理なダイエットにも走った。自分が忌むべき存在だからそういう扱いをされるのだ、と信じ込んでいた。そんなことより友達とか先生とか、周りに助けを求めればよかったのだけれど、当時は自分が社会に適合できていないのではないかと思えて、それを認めるとますます自分に自信をなくすから、どうしても人に言うことができなかった。当時の先生に提出しなければならない日記のようなものには、ほぼ楽しかったことばかり書いていた。

 

ルッキズムやその他諸々によって悩まされることは、クラスだけではなく部活でもあった。わたしは中学生の頃、ほぼ女子ばかりの音楽系の部活に入っていた。同期にはわたしの他に2人の女の子がいて、タイプは違うが2人とも美人だった。うわ、わたしだけ飛び抜けてブスじゃん。その中でもかわいらしくて性格も素直な子が先輩にとにかく好かれていて、1人だけ早く演奏会に出してもらったり、下の学年がやらなければならないミッションを免除されたりしていた。今思えばわたしにも至らない点は多々あったが、どんなに頑張っても越えられない壁がわたしと彼女の間にはあった。思い出す、「みゅうちゃん定期演奏会の劇に出たい?」と先輩に聞かれて、「出たいです!」と答えたら馬役になったこと。せめて人の役であれ。ネタになって美味しい役ではあるけれど、先輩たちは彼女には絶対馬役なんてさせないだろうな、と当時は思っていた。いじめられていたわけでは全くなかったし、それなりにかわいがってもらってはいたのだが、部長や副部長などの役職を誰がやるかが本人の希望度外視で先輩に決められたりと、振り返ればあの環境は残酷さと危うさを孕んでいたなと感じる。

 

中3になって、わたしに小さな嫌がらせをしていたグループの中心人物とは別のクラスになった。中3のときのクラスは穏やかな人が多く、クラスの中心人物がわたしのことを面白い奴として扱ってくれたこともあり、学校生活はだいぶ楽になった。クラスメイト全員の誕生日をサプライズで祝い、修学旅行の民泊のグループでさえくじ引きで決められるような平和なクラスでも、文化祭の準備では地味な子だけ外で作業をさせられるなど、多少の軋轢はあったが。高校生になり、「お弁当を誰と食べる?」から始まる人間関係の問題、部活、大学受験が近づいてきたこと、新たに生まれたコンプレックス……など、やっぱり問題は多々あったものの、年齢が上がるにつれて「人は人、自分は自分」的な考えで、割り切ったり受け流したりできるようになっていった。

 

特に中1のときは慣れない下宿生活を送るつらさもあり、「今の学校をやめ、実家に帰って地元中に行こうかな」という考えが頭をよぎることが何度もあった。でも地元中にもうわたしの居場所はないし、出戻ったら風当たりが強いだろうし、下手したらもっといじめられるかもしれない……と思った。やっぱりあの子ダメだったのね、と地元の人たちに思われたくなかった。「もうここで頑張るしかないんだ」と自分を奮い立たせて学校に通った。自分にできることで勝負するしかない、と思って誰にも負けないように死にものぐるいで勉強した。そのおかげで今のわたしがある。でも、勉強ができなかったらわたしは一体どうなっていたのだろう。

 

中2から過激なダイエットに走ったせいで、わたしは一時期ガリガリに痩せてしまって、生理が来なくなったり、貧血と低血圧で倒れたりしてしょっちゅう病院に通っていた。多分あの頃は拒食症気味だった。自分が大事な成長期にあることはわかっていたのに、当時は少しでも体重が増えてますます醜くなることが許せなかったのだ。ある時期からストレスで食に走るようになって元に戻ったのでまあよかったが、若いうちから体重の増減を繰り返して身体には負担をかけていそうだ。わたしは未だに自分の見た目に自信が持てないし、お洒落をしてもブスだから意味がないんじゃないかと思うことがあるし、自分は忌むべき存在だという思考が抜けなくて、仲の良い人といるときでさえ「わたしと一緒にいるの嫌じゃないかな」という不安がよぎってしまう。でも多分わたしに嫌がらせをしていた男子グループのメンバーは、そんなこと忘れて、今ごろ美味しいものを食べてかわいい恋人と仲良くしているんだろう。今更あの人たちを責めるつもりはない。でも悔しいからせめてあのときの経験にはとらわれずに、好きな服を着て好きなメイクをして、堂々と街を歩いていよう。

 

蘇ってくるのはキラキラした思い出がほとんどだが、学校って今思えばとてもしんどい空間だった。化粧も許されず、同じ服装で横並びにさせられたうえでルッキズムのもとに晒される。外見や性格や部活でカーストが決まって、周りからの扱いが変わる。嫌な奴とクラスが一緒になれば1年間憂鬱な思いをして過ごさなければならない。そのうえすごくつらくても、学校には行かなければならないという圧がある。わたしの「学校のしんどさ」はたまたまこんな形だったが、それぞれが大なり小なり形の違うしんどさを抱えたうえで学校に行っていたのではないかと思う。若いからこそ無邪気に傷つけあってしまう。青春の裏側には、たしかにいろいろな息苦しさがあった。

駒場祭2021書道パフォーマンスレポ (ほぼ精神面)

高校の文化祭でクラス企画の準備をするときは、仕切り役の子に「何かやらなきゃいけないことある?」と聞いて、ひたすら細々とした雑用をやるタイプ。間違っても自分でトップに立って仕切る人間ではない。そんな自分が、駒場祭2021の書道パフォーマンスで班のリーダーを務めることになった。


そもそもこれまでのサークルに関する思い出を振り返ると、苦い記憶しかない。与えられた役回りを投げ出してしまって逃げるように辞めてしまったり、仕事を引き受けすぎて潰れてしまったり。色々な人に迷惑をかけてしまった罪悪感と、やりたいと願っていたことがあったのに夢破れてしまった悲しさが、ずっと胸の奥に張り付いていて、度々自分を苦しめていた。学祭での書道パフォーマンスは一度だけやったことがあったが、かろうじて本番までたどり着くことはできたものの、練習を休んだことも何度かあったし、基本的には他のメンバーの指示待ちで助けられてばかりだった。そんな自分がリーダーなんかやって大丈夫なんだろうか。またみんなに迷惑をかけて逃げてしまうんじゃないだろうか。私みたいなクソ人間にそんな大役を担わせて大丈夫?弱気になり尻込みせざるを得なかった。


「自分が声をかけないとなかなかことが始まらない」という今まで経験していなかったような状況に戸惑いと不安を覚えながらも、約1ヶ月と少しに及ぶパフォーマンスの企画と練習が始まった。書道パフォーマンスは通常分かれた班の参加者の顔合わせと、曲決めから始まる。曲を決める際に私は「なんか流行ってるし、髭男は前に流れた企画でも出てたし」くらいの軽いノリで、Official髭男dismの「Cry Baby」を提案したのだが、それが僅差ながら投票でそのまま通ってしまった。ちなみに東リべは全く観たことがない。


曲が決まったら、どんな紙に何をどう書くか、という構成を決める過程に入る。特に書く文言を決めるにあたっては、ある程度歌詞を解釈してイメージを掴む作業が重要になる。それまでちゃんとは聴いていなくて「力強い曲だなぁ」としか思っていなかったCry Babyの歌詞を初めてしっかりと読んで、私は気づいた。この曲は「これまで負け続けてきた主人公が『もう逃げない』と立ち上がり、リベンジを誓う」曲なのだと。


私のための歌なんじゃないかと思った。


もちろん傲慢な思い込みでしかないのだけれど、どん底とも言っていいような状況から這い上がろうとする曲中の主人公の姿が、自分の負け癖やコンプレックス、ネガティブさ、劣等感、そしてなんとかここから立ち上がりたい、逃げない自分になりたい、という気持ちと重なった。

 

書く文言が決まったら、誰がどこを書くか決めて、いよいよ本格的な練習が始まる。書道パフォーマンスといったら、お正月のテレビで見るような、大きな筆で大胆に文字を書くあれを想像する方が割と多いのではなかろうか。あそこまでではなくても、私たちの班も最後に大きな文字を書いてパフォーマンスを締めることにしたのだが、「誰もやらないなら自分が代わりに引き受けようとする」性分のせいで、私は上手いわけでもないのにトリの一番大きな文字を書くことになってしまった。頑張らなきゃなぁと思う一方で、自分の中の悪魔らしき何かが囁いてくる。

ーーそんなプレッシャーがかかるようなこと引き受けて大丈夫?また投げ出して壊して逃げ出して迷惑をかけて、その繰り返しじゃないの?


もう逃げない。あの頃の自分とは違うと証明したい。その声を振り払うようにひたすら字を書き、練習に励んできた。

 

 

書道パフォーマンスをするにあたって自分の一番の課題は、自分が最後までやりきれるわけがない、一度した失敗は二度三度と起こるに決まっている……と決めつけるネガティブな自分との闘いだった。1ヶ月半程度の練習期間のうち、やっぱり私には無理なのではないかと思い、家の中で子どものように泣き出してしまったことが2回あった。


1回目は確か10月中頃、練習期間ももうすぐ後半に入ろうとするときだった気がする。パフォーマンスの制作の進捗状況が良くなく、ちょうど授業で忙しいときやバイトの繁忙期と重なったこともあり追い詰められ気味になってしまって、「色々と忙しくてつらい。この調子だと前みたいに全部ダメにして途中で逃げ出してしまうんじゃないか」などと言いながらぼろぼろ涙が溢れてしまった。できるだけ心の中に隠していたコンプレックスの端がほどけて言葉になっていく。「確かに前はそういうこともあったね、でも今のみゅうさんはそのときと同じなの?違うでしょ」という言葉が痛々しいほどに突き刺さった。正直わからないけれど、今はもうあの頃の自分とは違うと思いたい。


進捗状況はずっと遅れぎみだったが、同じ班のメンバーや他のサークル同期の助けを借りつつなんとか練習を回し、本番こと撮影日が近づいてきた。ちょうど撮影日の1週間前、ようやくパフォーマンスらしい形になってきた頃に、知人が出ている、別の大学の学祭の動画を見る機会があった。布団の上で寝転がったままYouTubeのリンクをタップして、ぼんやりと演奏を眺める。こうやって日常の中で何気なく消費されていく学祭企画の背後に、学生たちが絶え間なく続けてきた無償の努力があることを、改めて実感する。

と同時に、あと1週間しかないのに「できない」と言ってパフォーマンスを投げ出して逃げる自分の姿が、なぜかありありとリアリティを持って浮かんできた。リーダーの自分が逃げ出したらどうなるんだろう。代役を選んで意外と普通に、何事もなかったかのようにパフォーマンスは仕上がるのかもしれない。もう諦めたくはない。でもあと1週間、自分は走り続けられるのだろうか。以前みたいに「無理」と言う自分が顔を出してくるのではないか………そんなことを考えているうちに、気がつけばまた涙が溢れ出てきた。ただこのときは、嗚咽し始めてから少し経ったらすぐに「大丈夫。もう逃げたくないから頑張る」と言えていたと思う。ネガティブの波から自分で立ち上がることを、少しずつ覚えてきた。

 


ところで、コンプレックスについて、近頃思うことがある。私は特に高校時代あたりからコンプレックスの塊で、J-POPで劣等感について歌われていたりするとつい聴き入って共感してしまうような人間だが、つい「好きな音楽の道で大成功しているバンドマンなんかに劣等感を歌われても説得力がない」と素直に受け止められなくなる。「僕には選べなかった人生と夢」なんて歌われても、才能があって音楽家として食べていけているあなたなんかにわからないだろうと。しかしそういう、人にはわかってもらえないようなコンプレックスを抱えているのがかなりしんどいことを、私は高校時代の経験から知っている。そもそも劣等感って、少なくとも私の場合は自分を「優れた人間」か「劣った人間」かに分けて、「劣った」側だと思った瞬間に、世間的な成功など関係なしに抱いてしまうものだ。有名なバンドマンにだって自分が「劣った人間」だと思ってしまうときはきっとあるのだろう。そして、私は特に高校生の頃から自分を「劣った人間」として位置づける負け癖がついてしまっていたというか、自分の「劣った」面や失敗経験にばかり光を当てて注視してしまうことがほとんどだったのだと思う。たとえ実際に自分ができない方だったとしても、光を当てなければ物事は見えないのだ。そんなことを言語化できたのは本番よりもうしばらく後だったが。

 


本番までの残りの1週間は、何を考えていたかあまり記憶にない。ただ、ここまで色々と頑張ってきたんだからやり遂げなくてどうするんだ、今までの過程を全部無駄にしてたまるか、みたいな意地で走り抜けたところがあったと思う。そしていよいよ本番こと撮影の日が来た。


なかなかリハーサルは予想通りにいかず、変更点もあった中で迎えた本番。「絶対成功させるぞ!」と言いながら円陣を組んだ。泣いても笑ってもこれで最後、一回きりの本番の前、私はほぼ緊張しないタイプのはずなのに脚の震えを抑えられなかった。何人かの観客(同じサークルの人々ではあるが)の前で、イントロが流れ始めた。脚の震えは止まらないままだったが、イントロを聴くとある程度は身体が自然に動き出し、練習のときの流れ通りに書けた。字を上手く書くのももちろんだが、この曲に込められた「闘志」「挑戦的な姿勢」を表現できるように心がけた。


ラストサビ、曲が終盤に入り最後の紙へ。いよいよ自分が大きい字を書いて締めるときが来た。最後の最後、何かが取り憑いたかのように意識せずとも身体が自然に紙に飛びついていた。上手な字ではなかったが、これまでの練習よりかなり躍動的に書けた。この頃には脚の震えは止まっていたというか、もう気にはならなかった。ただ目の前の紙と対峙し、筆を動かすだけだった。


曲が終わり、パフォーマンスも終わった。終わったあとコンパネ(紙を貼るパネル)の後ろに回ったらしばらく立てなくなった。緊張のあとの弛緩や、無事に終えられた安堵感ももちろんあったのだけれど、たぶん「自分も何かを最後まで成し遂げることができた」という事実が信じられなかったというところも少しだけあったと思う。

 


同じサークルの人などが読んでくださっている気はしないのだが、一応メッセージというか、思ったことを残しておきたい。

同じ班でパフォーマンスに取り組んでくれた皆さん。まずは頼りないリーダーについてきてくれてありがとうございました。練習の時期からミスもたくさんあったし、何より私の言葉にいつも伝わりにくいところがあってごめんなさい。皆さんの素敵な字やアイデアに私の方こそたくさん学ばされるところがありました。サポートの方もたくさんアイデアを出してくださり、遅れぎみだった状況をしっかりと期日までに仕上げ、事務仕事の面でも色々と助けてくださりました。感謝しかありません。何より、皆さんと同じ目標に向かい、一緒に書道パフォーマンスを作り上げられたことが幸せでした。何度言っても足りませんが、本当にありがとうございました。

当日サポートや観客として来てくださった皆さんもありがとうございました。当たり前ですがあなた方がいなければパフォーマンスは成り立ちませんでした。観客としていてくださった方々も、おかげさまで士気を高めることができ、感謝しています。

そして、サークルの内外を問わず、私の豆腐メンタルが折れそうになったときにアドバイスをくださったり励ましてくださったりした方々も、ありがとうございました。言葉は何を言うかももちろんですが、「誰が言うか」がかなり重要な部分なのではないかと思っています。あなたの言葉はあなたの背景や人となりがあるからこそ私の支えとなったのです。

 

 

書道パフォーマンスの何が面白いのか。上手く言えないが、まずは書道と音楽というかけ離れうるものが合わさったことによって起こる化学反応だと思う。文字や絵、歌詞、音楽が一体となって新たな世界を作り上げる。私のように音楽の素養がなく、自分で言葉を紡ぎ上げるような能がなくても、身体で想いを表現することができる芸術だ。

そして何度練習を重ねて上手くいっても本番でどのようにパフォーマンスできるかが全てであること、書き上げた紙はすぐに捲られて取ってはおけないこと、こういった刹那性が余計に想いの表現を引き立てるのだと感じる。

 


もちろんつらさも大きかったが、振り返ってみると案外楽しく、夢のような時間だった。未だに他班含め自分たちのパフォーマンスを見返してしまう。一応のリーダーとして最後まで作品をつくり上げることはできたが、ただ、それがきっかけで180°世界が変わるようなことはなかった。自信が全くつかなかったわけではないものの、相変わらず私はメンタルが弱いし、投げ出しそうな自分は度々見え隠れする。華々しい「リベンジ」ではなくとも、成功体験を繰り返して「最後までできる自分」に少しずつ光が当たるようにしていくしかないのだと思う。今回の書道パフォーマンスでの経験は、長らく眠って埃まみれで下手したら失われそうだった「最後までできる自分」にようやく光を差したものだったのだ。

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小学校の同級生が亡くなった話

今日、小学校の同級生が亡くなったと、母から知らされた。21年の生涯だった。


わたしの出身小学校は、1学年が10人前後、全校児童が70人弱の小さな小さな田舎の学校だった。田舎ならではのことだが、引っ越してきた転入生や原発事故で避難してきた子が来ることはあれど、保育園の頃からほぼメンバーは変わらず、全員仲良し!みたいな12人でわたしたちは小学校を卒業した。中学に進むときにわたしは中高一貫校を選んだから、わたしだけがこのメンバーから抜けてしまったが、残りの11人は中学でも一緒で、高校に入っても大多数が同じ学校にいたはずだ。そのせいか子どもたちも保護者もとても距離感が近く、中1のころは何度かみんなでBBQなんかをしたし、高校卒業のタイミングでも集まった。卒業アルバムに書いた通りに、一昨年の夏も成人式の記念ということで集まってBBQをした。また5年後にでも集まろうね、という話をしていたはずなんだけれど。


彼の病気を知らされたのは、今年の3月に入ってからだった。母から「〇〇が病気で仕事を辞めて、今は家に帰ってきてる」というメッセージが来たときは、ちょっと体調崩しちゃったのかな、そうなんだ、くらいの感覚だった。でも「大腸癌で若くて進行が早くて、もう危ないって今朝言われたから」と追ってメッセージが来たとき、わたしは現実を信じられなくて、信じたくなくて、「うそ……」としか返せなかった。小学校のときだって、いや成人式の記念で会った一昨年の8月だって、あんなに元気だったのに。去年の10月末に彼の仕事の話を母から聞いたくらい、ちょっと前までは元気でいたはずなのに。


いまはコロナの関係でお見舞いに行くことも難しく、病院に行っても会えるのは彼の父親だけらしい。どうしてもこの事実を1人では抱え込めず、どうすればいいんだろう…と何人かにこぼしたとき、親しい人が「このご時世だとZoomとかしかできないのかな」と言ってくれた。3日前に、母と彼の話になったとき、わたしは「前のようにまたみんなで同じ場所に介することは難しいかもしれないから、LINEのビデオ通話とかで話すことだけでもできないかな」と提案してみた。母は、彼はもう話すことができるかわからないけれど、顔だけでも見たいし、みんなの話も久しぶりに聞きたいよね、と賛成してくれた。彼は4月が誕生月だからその記念にやれたらいいね、ということでわたしの代わりに母からみんなを誘ってもらえるように頼んでおいた。その矢先だった。


叶わなかったビデオ通話の提案、もっと早くにしておけばよかったのに、と思う。中学に入るときにわたしだけ地元中を離れてしまったから、なんとなく気まずさがあって思うように動けなかったけれど、なりふり構わずにアクションを起こせばよかった。


彼の死をきっかけに色々と思い出を蘇らせてみたが、不思議とくだらなくて日常的なものしか浮かんでこない。小学校のころ下校するバスが一緒で、低学年のころは勝手に隣に座っていやがられていたこと。健康観察(「はい、元気です」と答えるやつ)で、彼が1年くらいずっと「はい、脚が痛いです」と答えていたこと。わたしが中学受験の作文や面接対策のために小6の冬休みに学校に行っていたとき、彼も同じタイミングで学校にいて、通分に苦戦していたこと。あのとき、なんで一言も声をかけずに帰ってしまったんだろう。思えば小学校高学年のころから、わたしはなんとなく恥ずかしさや照れくささがあって、彼とあまり話すことができていなかった。成人式記念の集まりのときも、彼とはほぼ会話せずに終わってしまったと思う。こんなことになるなら、もっと彼と話しておけばよかった。


彼の生涯を「短い」とか「まだ若いのに」とか、そういう言葉で勝手に形容することはしたくない。人は誰しもいつかは死ぬ。けれどあまりにも、残された者たちにとっては早すぎる。


皆さんに伝えたいのは、「あなたが死にたいと思っている今日は、誰かが生きたいと思っていた今日なんだ」みたいなことではない。わたしはこの言葉は嫌いだし、めちゃくちゃつらいときは死にたくもなる。けれど、わたしはもう少し頑張って生きなきゃいけないな、と彼の死を受けて思った。未だに彼がもうこの世にいないなんて受け止めきれていないし、信じられないけれど、優しくて真面目だった彼のことや、彼が病気と懸命に闘ったことを忘れないでいたい。あ、少しでも体調が悪いと思ったら無理せずに病院に行って身体を大事にすることや、健康で生きていられることは当たり前ではない、ということは、皆さんに伝えておきたいと思う。それは彼が教えてくれたことだから。


これからお通夜やお葬式が執り行われるのだろうが、ちょうど最近忙しくて、行けるかはわからない。そのうえその場に行くのはとんでもなくつらい。この歳で同級生が亡くなるなんて思わなかったから、喪服も持っていない。けれど、できれば行って、ちゃんと彼にお別れを言いたいな、と思う。それに地元に残った同級生たちは、わたしより彼と一緒にいた時間が長いから、もっとつらいだろう。泣いていないで、わたしが一番しっかりしなきゃならない。


彼の誕生日はたしか4月19日だったと思う。せめて彼が、22歳の誕生日を迎えられればよかった。会津はまだ少し雪が残っていて寒い。最後に、彼に桜を見せたかった。

入学当初に貰った大量のビラが出てきた話

最近、ちょこちょこと部屋の片付けをするようになった。

 

ものをなかなか捨てられないたちであるわたしの部屋を少しひっくり返すと、昔使っていたプリントや資料の類がたくさん出てくる。前期教養学部の便覧、駒場生活の手引き、英語の授業のレベル分けで使った資料、分厚く束ねられたシケプリ。なんとなく楽しくなってしまって、家のいろいろな場所を掘り返す。長らく開けていなかった戸棚を開けると、大学入学当時に諸手続きやサークルオリエンテーションで貰ったサークルの新歓ビラ群がうず高く積まれたままになっていた。

 

思わずそれらを懐かしく見返してしまった。大量のビラを眺めていると、入学当初のわたしが何に興味を持っていたのかがありありとわかる。運動部のビラなどもところどころに挟まっていて、当時のわたしは今のわたしからは考えられないような選択肢もちゃんと考慮に入れていたんだな、と思った。「入るサークルを絞ろう」とわたしの字で書かれたメモもあり、そこには8つくらいのジャンルと、そこを選ぶことによるメリット・デメリットが並んでいた。いかにも優柔不断なわたしらしい。

 

ビラ群の中でも特に目を引いたのは、やはりサークルオリエンテーションの日に特に興味があるサークルを回ったときに貰ってきたビラや資料だった。ああ、そういえばバドミントンがやりたかったんだっけ、とそれらを見ながら入学当時の気持ちを蘇らせる。なんとなく、自分には選べなかった人生やストーリーを見ているような気分になる。初々しかった自分が思い出されるな、と笑いながらビラをめくっていたわたしは、彼氏が入っていたサークルのビラ・資料を見つけてしまい、はっと手を止めた。

 

そういえばわたしは、彼氏と同じサークルを入る最終候補くらいまでには残していた。もしかしたらサーオリですれ違うようなことがあったのかもしれない、いやそんなわけないか。わたしがあのサークルに入っていたら、同じサークルのメンバーだったらどうなっていたのだろう。わたしは1年生の頃に身体的・精神的な不調で入っていたサークルを辞めてしまっているから、おそらく彼は「辞めてしまったサークルにいた人」になっていて、もう二度と会うことはないような存在だったのだろう。2人で飲みに行くようなこともあるはずがなかったと思う。一緒のサークルに入っていなかったからこそ、わたしたちはお付き合いすることになったのだ。そう考えると人生は不思議だ、いつどこで誰と交わるかわからないから。

 

そういえば入学当初の自分は、「わたしはこれから何にでもなれるのだ」と思っていた。自分はこれからどんなサークルにも入れるし、どこの学部にも行けるのだと。早く何者かになりたいと願う一方で、可能性に満ちた自分が愛おしかった。あれから何年も経って、一応居場所はできてきたけれど、わたしは望んでいたような「何者か」になれたのだろうか。どの局面においても消極的な選択肢をとるばかりだった自分は、何者にもなれなかったのではないかと、自分の存在意義が欲しくて仕事を求めていた自分を想起しながら考える。

 

今のわたしが入っている5つのサークルは、入学当初の自分が興味を持っていたものとはほとんど一致していない。「誘われたし、なんとなく興味があるから」程度の理由で選んだものもあるけれど、サークルはものすごく楽しかった。勉強との両立に苦労しつつ、サークル活動に明け暮れていた2年生までの日々は青春だったと思う。入学当初の初々しい自分の息遣いが感じられる大量のビラ群に愛おしさを覚えながら、またあの頃のように心置きなくサークル活動ができる日が来ることを、心から望む。

「結婚する?」と言われた日の話

その日は突然に訪れた。いつも通り、彼氏と並んで布団に入って、手をつないで眠ろうとしたその時だった。

「みゅうさん。結婚する?」

そう彼は言った。

 

確かにわたしは、最近「好き〜」と同じ程度の感覚で「結婚してくれ」と言ってしまうのよね、という話を彼氏にしていた。でも彼がそんなことを言い出すなんて想像もしていなかったから、しばらく固まってしまった。え?ほんとに?どういうつもり?ぐるぐると思考を巡らせた挙句、ようやくわたしの口から出てきたのは、「え?どういうこと?」とか「急にどうしたの?」みたいな言葉だった。

 

本当は、ちょっとだけ嬉しかったのだけれど。

 

彼がその後どんなことを言っていたかはあまり覚えていないけれど、「変なこと言ってごめんね」みたいな感じで謝られた気がする。「うわあ、びっくりした〜〜」みたいな返事でごまかしたけれど、ああ、やっぱり嘘だったのか、とがっかりしてしまう自分に気づく。内心わたしは、彼の言葉が本当であれと期待してしまっていたのか。

わたしは嘘が嫌いで、「本当だったらいいのに」と思ってしまうタイプの嘘がいちばんに嫌いだ。

 

昔から、わたしは結婚に憧れていた。華やかなウエディングドレスに身を包んで、涙ながらに両親への感謝の言葉を述べる花嫁さんを何度も素敵だと思った。わたしもだれか素敵な人と一生添い遂げてみたい、とずっと思っていた。

でもいま、いざその言葉を前にすると尻込みしてしまう自分がいることに気づいた。「結婚してみたくないと言えば嘘になるけれど、自分なんかに誰か一人を一生付き合わせるのなんて申し訳なさすぎる」と彼に伝えると、彼は自分も同じことを思う、と同意してくれた。

 

翌日、コンビニで一緒に買い物をしたあとの帰り道で、「昨日はあんなこと言ってごめんね」とまた謝られた。本当は、謝らないでいてほしかった。謝られたら、あの言葉が嘘であることがより確実になってしまうから。

 

彼は本当に素敵な人で、他の人と比較するのはあまりよくないことだってわかっているけれど、わたしがいままで付き合った人の中でいちばんわたしのことを大切にしてくれる。でも、それに気付かされれば気付かされるほど、切なくて苦しくなるのはなぜだろう。いつか来るさよならを先延ばしにしているだけだという自覚があるからだ。自覚はあるけれど、わたしはそれが怖くて仕方がないのだ。

 

しかし、あの日からわたしは、なぜか彼と結婚する自分を少しだけ想像してみてしまうようになった。結婚したい、なんて思うと失敗するのが過去の経験則からわかっていたから、わたしは彼に入れあげすぎるのを避けていたのに。いまのところわたしは誰とも結婚するつもりがないし、できれば彼にもわたしと別れたあと誰とも結婚しないでほしい。ただ、結局のところ、「みゅうさん。結婚する?」という彼の言葉が、嘘でもたちの悪い冗談でもわたしはちょっとだけ嬉しくて、ちょっとだけ信じてみたかったのだ。