年の瀬に泣いたわけ

「いろいろと要因はあるんだけれど、彼氏と会える今年最後の日にぼろぼろ泣いてしまって、彼氏のジェラピケのパジャマをわたしの涙で汚してしまった」

これはわたしの2020年12月28日のツイートだ。そんなに涙脆くはないタイプなのだが、この日は久しぶりに自然に、涙がぽろぽろと出てきて止まらなかった。友達と会う約束をしていた日で、出かける直前だったのに。彼の肩でひとしきり嗚咽した次は、出かける支度をしながらしばらくぐすぐす鼻を鳴らしていた。


何か大きなことがあったわけではない。ただ、わたしは前日の夜に夢を見た。いや、もしかしたらわたしが微睡んでいるときにした悪い妄想の類かもしれないが。彼がいなくなってしまう夢を。


彼にはどこか儚いイメージがある。別に雰囲気は儚げではないのだが、いつかふっとわたしの手の届かないところに消えてしまいそうな気がする。幸せなうちに死にたい、と彼は一度口にしていた。その時は死ぬなんてやめてよ、と笑って返した気がするんだけれど。


夢を見た朝、起きてまず不安になったわたしは彼をぎゅっと抱きしめたし、昼間に用事から帰ってきてからも飽き足らず彼をぎゅっと抱きしめた。いつもわたしにはこれしかできない。こうすると彼が「ここにいるよ」と返してくれるのも、いつも通りだ。

でも「いま」ここにいるというだけでは何の保証にもならない。すぐ後にはどこかに行ってしまうかもしれないなんて刹那的であんまりだ。彼がそういうことを言うタイプじゃないのは知っているけれど、ほんとうは「ずっと」とか「永遠に」とか、そういう言葉が欲しい。嘘でも……いや、嘘ならいらないや。


結局わたしは「ずっとじゃなくていいから、もうしばらくはここにいてくれる?」と、前もしたのと同じお願いをすることしかできなかった。

 


涙が堰を切ったように止まらなくなったのは、自分がいなくても幸せになれるようになってほしい、という彼の言葉がきっかけだった。大した意味はないのかもしれないけれど、その言葉にわたしは耐えられなかった。


そうした方がいいのはわかっているが、今更そんなことは無理だった。彼とは出会って3ヶ月しか経っていないが、いろいろな話をして、家でも外でも一緒にご飯を食べて、お酒もたくさん飲み交わした。わたしがひどく落ち込んだり病気をしたりしたときは幾度となく助けてくれたし、家も片付けてくれたし、旅行にも行って、夜は隣で体温を感じながら眠った。電話も何度もずっと繋いでいた。思えば彼と過ごしている時間はとても短いようにも感じるし、昔からずっと彼のことを知っているような気がすることもある。でも出会ってからの期間なんて関係ない、もう彼は顔を洗ったり歯磨きをしたりすることのように、生活の一部なのだ。それが欠けてどうして幸せでいられようか。もう彼なしで自分がちゃんと立っていられるのかすらわからない。


死んじゃダメだからね、ほんとうに、死んじゃダメだからね、と繰り返しながら、わたしは彼の肩で泣いた。変な慰めじゃないだけよかったけれども、彼の善処するよ、という返事でもっと涙が溢れてきた。ひとに「生きていてほしい」と願うことはいちばんのエゴだって、利口でないわたしにだってちゃんとわかっている。「生きていてほしい」「ここに帰ってきてほしい」と彼に言うことは、10億円のダイヤをおねだりする以上のわがままだ。わたしには彼の生きる理由になることも、支えになることもできない。でも、わたしは彼に生きていてほしいと願うことをやめられなかった。エゴでしかないけれど、これは一種の祈りでもあるのではないかと思う。生きていてほしい、もちろん幸せに。


ぐずぐず泣きながらなんとか支度をしていたら、彼が「プリンおいしい」とか言い出して笑わせてくれた。家を出るときに、会えるのは今日が今年最後なので一応「1年間……ではないけれど今年もありがとうございました」と彼に挨拶をした。彼が「来年もいい年にしましょう」的なことを返してくれたのを聞いて、せっかく出かける準備をしたのにまた泣いてしまった。この日メイクがぼろぼろになったのはぜんぶ彼のせいだ。彼と何年も同じ時間を過ごしていけるかはわからないし、正直あまりそんな気はしないけれど、もう少しだけそばにいたい。

 


ちゃんと帰ってきてね、としつこく彼にお願いをしながらわたしは家を出た。贈るべき言葉も、この状況にぴったりな歌詞もない。どう締めくくっていいかわからないが、来年も、いい年でありますようにと心から願う。あ、お願いだけじゃなんだから、ついでに神様にお礼を言っておくことにしよう。神様、わたしを彼と出会わせてくれてありがとう。たくさんの幸せの形と、愛情の示し方と、失う怖さを教えてくれた人と。

香る

彼氏からはいつもとてもいい匂いがする。

 

何度も抱きついて嗅ぎたくなるような、優しくて、でもしっかりと印象に残る香り。原因はわかっていて、たぶん彼の家のボディソープだ。初めて彼の家に泊まりに行ったとき、彼がいつも使っているボディソープを借りて使ったら、自分から彼と同じいい匂いがして、えらく感動してしまったことを覚えている。

 

でも先日、彼がわたしの家のお風呂に入ったあとでも、彼から同じ匂いがすることに気づいて、わたしはひどくびっくりした。わたしがいつも使っているのと同じボディソープを使ったはずなのに、なぜいつも通り彼の家のボディソープの匂いがするのだろう。

 

このことについて考えていたとき、真っ先に思い出したのは平井堅の「ソレデモシタイ」という曲の冒頭の一節である。浮気・不倫の恋について女性の心理を巧みに歌っていて、MVでは平井堅がインド人の格好をして踊り狂うという、名曲であり迷曲だ。

 

あなたは決して使わないのよ アタシの好きなボディーソープを
シャワーでさらっと流すだけなの アタシを持ち帰らない為に

無味無臭で ただいまって 正しい愛を抱きしめるのね
減らないのよ ボディーソープ アタシの心が減ってくだけ

 

彼氏の浮気を疑っているわけではないのだが、わたしは香りという面ですら、彼氏を自分のものにできていないような気がして、少しだけ悲しくなった。別に完全に自分のものになってほしいなんて思わないし、そもそも「恋人を自分のものにする」なんて考えはとても傲慢だ。でも、わたしはもうほとんど彼のものだと言うのに。

 

しかしながら、よくよく考えてみたら、「香り」はえらく重要なファクターだ。人が最後に忘れるのは匂いだ、とどこかで聞いたことがある。

わたしの研究対象のひとつである源氏物語に登場する薫は、生まれながらにして身体からよい香りがする、という一風変わった設定をされた人物だ。光源氏の「光」と対になる概念としての薫の「香り」。彼の生まれつきの香りはなかなか忘れられなかったからこそ、光源氏には及ばずとも彼は人々の記憶に残り、気品は源氏をしのぐような存在になったのではないか、とたまに想像する。

 

彼氏がいつかわたしの匂いをさせてくれる日は来るのだろうか。無理してまでさせてほしくはないけれど、いつか気づけばわたしの匂いに染まっていてほしいな、なんて思う。恋人には無理はしてほしくないけれど、少しだけ無茶は言いたくなるものだ。ただ、それでも結局のところわたしは彼のことが、どんな匂いでも好きだ。

拝啓、夏があまり似合わなかった君へ

君を好きになったのは、昔々の文化祭の日だった。あのとき、ふらりと現れた君がわたしだけに声をかけて去っていったという思い出を忘れることができない。

それからは長らく君のことを想い続けていた。ご飯にも誘ったし、何度か用事を作って連絡をした。叶わぬ恋だということはわかっていても、なかなか諦めることができなかった。君のことを忘れようと、ほかの恋に走ったこともあった。でも結局ダメで、何度も君への想いに帰ってきてしまったのだった。君はそんな失恋の痛みを癒してくれさえした。

 

君は本当によくわからない人だった。君についてわたしが知っていたことはほんのわずかで、時にはそれすら疑いたくなることがあった。それでも、君と過ごす時間は楽しくて、話したくて、少しでも一緒にいたかった。わたしの胸も痛かったが。

姑息で孤独な君が嫌いで、でも好きで、そんな自分も好きだったのだ。

 

君に一度だけ想いを伝えたとき、君はYESともNOとも言ってくれなかった。

 

君と2人きりで会ったある夏の日のことを、わたしはよく覚えている。あの日、滅多に自分のことを話さない君がぽつぽつと自分の話をしてくれたことが、わたしは嬉しかった。君が「みゅうさんといると楽しい」と言ってくれたという思い出と、2枚だけ撮った君の写真をわたしはなかなか捨てることができない。叶わなかった「また2人で会いましょう」という約束も。

 

でも、わたしには「君と一緒にいる」という選択肢を取り続けることが、どうしてもできなかった。好きで好きで好きなのに、その想いが叶わないことが、君がわたしを好きじゃないどころかわたしに1mmも興味を持っていないことが、つらくて耐えられなかった。

 

君はあの夏の日、自分のことを人間不信だと言った。わたしは君の人間不信に拍車をかけるようなことをしてしまったのではないかと、それが不安でならない。君に正直な気持ちを打ち明けることが、どうしてもできなかった。傷つけたくないと願うあまり、君のことを余計に傷つけてしまった。わたしには君に謝る資格すらないと思っているが、これだけは言わせてほしい。本当に、本当にごめんなさい。

 

君のことを好きでいたあの頃、「この恋が途切れたときにはすべて忘れて生きていこう」と思っていた。君に恋する想いはもう途切れてしまった、まだ君はわたしにとって大事でかけがえのない存在ではあるが。さあ、君のことをすべて忘れて生きていこう、というところだが、どうしても全ては忘れることができなくて、こんな風にグダグダと文章を書いたりしている。

 

拝啓、夏があまり似合わなかった君へ。

わたしはそれなりに、いやかなり今日もロクデナシでいます。また君に会えたら、ちゃんと挨拶をして、直接謝って、元どおりの関係性に戻ることができればと思っている。いや、君がそれを許さないのなら、わたしのことなんて忘れて、無視していてくれればいい。いつか君が本当に信じられる人に出会って、素敵な関係を築いてくれるといいな、なんて思う。君の幸せを、わたしはただただずっと願っている。

 

「クラスメイト」

ブログのネタがないので、以前から趣味でやっている歌詞解釈でも文字に起こしてみようと思う。

 

記念すべき第1回は、わたしのいちばん好きなバンドのひとつであるMr.Childrenからだ。両親の影響で、ミスチルは小さい頃から車の中でかかっていたし、中学時代からは自分のウォークマンに入れて自主的に再生するようになった。最近久しぶりにミスチルの曲をかけてみたら、何度も何度も聴いていたおかげで、未だにそらで全部すらすらと歌詞が口をついて出てくることに驚いた。童謡か何かか。

 

21歳になってミスチルを聴いてみると、中学時代の自分には、歌詞の意味が全然理解できていなかったんだな、ということがよくわかった。人生についての歌も、恋愛の歌もそう。 桜井さんの紡ぐ歌詞の意味を少しだけ実感できるようになったことを嬉しく思う一方で、自分がなんだかずいぶんとすれた人間になってしまったような気がして、ちょっとだけ悲しく思う。

 

理解できていなかった歌詞の中でも最たるものは、性的な描写や、不倫や浮気についての詞だ。ミスチルには不倫や浮気を歌った曲が何曲かあり、昔のわたしはボーカル桜井さんのどこか気だるげで、でも吹っ切れたような歌い方が好きでよく聴いていた。ただ、「これは浮気を歌っているんだなぁ」くらいのレベルでしか理解できていなかったと、色々な恋愛を見聞きした今となっては思う。いや、いまのわたしにもたぶん半分弱しか理解できていないだろう。

 

……前置きが長くなってしまった。今回はそんなミスチルの浮気ソングの中でもわたしが特に好きで、昔からよく聴いていて、最近聴き直してみて新たな気づきが多くあった「クラスメイト(1994)」を取り上げたい。

 

多忙な仕事あってこそ優雅な生活
なのにやりきれぬ Oh sunday morning
愛を語らい合って過ごしたいけれど
悩める事情にさいなまれ

出だしの歌詞はこんな感じだ。この曲の主人公は「多忙な仕事」をしていて、「優雅な生活」を送っているということで、そこそこ社会的地位も高いのだろう。そんな主人公が、日曜日、休日の午前中にやりきれない思いを抱いている。「愛を語らい合って過ごしたい」ということはそれは恋愛の悩みなのだろうが、一体なんなのだろう。それが次のフレーズで明かされる。

 

陽は傾き街は3時 少し遅い君とのランチ
後ろめたさで微かに笑顔が沈んじゃうのは
仕方がないけれど

主人公は、「君」と一緒に少し遅いランチをとる。「3時」と「ランチ」で踏まれた韻が心地よい。灰色がかったオレンジのような空の色彩が思い浮かぶ。それはきっと主人公の心の色にも似ているのではないだろうか。主人公と「君」とは、「後ろめたさで微かに笑顔が沈んじゃう」というフレーズからわかるように、後ろ暗いところのある関係なのだ。「君」とのランチが少し遅くなるのは、おそらく「君」がお昼頃まで本命の彼氏と過ごしていたからなのだろう。(主人公と会うまでお昼ご飯を食べていないということは、前日・土曜日は仕事終わりの彼氏の家に泊まりに行っていて、日曜日は休日だからとゆっくり寝てのんびり彼の家を出た…みたいな状況なのではないかと邪推する。)

 

3ヵ月前の再会から思ってもない様な急転回
今じゃ もっと彼女に恋をして
もう 振り出しに戻れるわけない
「ただのクラスメイト」
そう 呼び合えたあの頃は a long time ago

サビの歌詞。「3ヵ月前の再会」は同窓会か何かだろうか。昔ほんのり想いを寄せていた相手だったのかもしれないし、久しぶりに会ってみたら想像より話が合ったのかもしれないし、もしかしたら「君」は彼氏とあまりうまくいっていない時期で、恋愛相談を持ちかけたのかもしれない。いずれにせよ主人公は「今じゃ もっと彼女に恋をして」「もう 振り出しに戻れるわけない」ところまで来てしまったのだ。出会ってしまい、惹かれ合って繋がってしまったふたりは、もう「ただのクラスメイト」には戻れない。恋愛というのはそういうものだ。一度恋の相手になってしまったら、別れても特別になってしまって、もう元のような友達にはなれるはずはない。

 

何度も話し合って決めたルールでも
このままじゃ彼女 かわいそうさ

2番に入る。ここの「彼女」はsheすなわち「君」とも主人公のgirlfriendともとれるが、文脈的におそらく前者の方だろう。中学時代のわたしは、girlfriendの意味でとっていたために、この曲のふたりはお互いに本命の恋人がいる状態で付き合っていて、どちらも浮気をしているという状況なのだという解釈をしていた。たぶんそうではなくて、主人公が一方的に浮気相手にされていると言った方が正しい。まあどちらも悪いのだが、どちらかと言えば直接本命の彼氏を裏切っている「君」の方が罪は重い気がする。本命彼氏にバレないように決めたルールのために、ふたりはなかなか会えないし、連絡をするにも気を遣う。一方的に浮気相手にされている主人公の方が「君」よりはかわいそうな気がするのだが、相手の方をかわいそうだと思ってしまうあたりに、ちょっと弱気で情けない主人公の像が浮かぶ。

 

もうじき来る 君のBirthday
迷わず僕だけを選んで
ごめんよ いつも困らすばかりで
しばらくは彼の話はやめとこう

最近この曲を聴き直していたときに、ここの歌詞に「いやそれはないやろ」と突っ込んでしまった。「君」が自分の誕生日を一緒に過ごす相手として、浮気相手である主人公を選ぶわけがない。おそらく「君」は誕生日の当日は彼氏と一緒に過ごして、主人公は3日後くらいにこっそりお祝いすることになるのだろう。そんな気持ちをぶつけて「君」が困るのも当然だ。でも、そんなことをしてくれるはずがないのはわかっていながら、「僕"だけ"を選んで」という心の奥底の言葉が出てきてしまう主人公の気持ちもよくわかる。大人であっても、好きな人にだけはわがままをぶつけたい。

これはどこかで読んだブログの受け売りなのだが、「しばらくは彼の話はやめとこう」には「しばらく別れの話はやめとこう」という意味が掛かっているという説がある。あまりにも巧みで、さすがミスチルだ、と思った。会っている間だけでも忘れていたいはずの「彼」の話をついしてしまうのはなぜだろう、さもしい嫉妬心のためであろうか。「彼」の話ができるあたり、もしかしたら主人公は「彼」のことを多少知っているのかもしれない、だったらなおさらつらいだろうな、などと邪推は膨らむ。つらいのに、「彼」への後ろめたさもあるのに、「しばらく別れの話はやめ」てしまう。いつかしなければならないさよならを後回しにしてしまう、どうにもならないふたりだ。

 

君といれば他のどんなものも
ささいな事に思えてくる
今までのキャリアもわかるけど
ねぇ 何もかも委ねてくれないか
寂しげな街の灯が消えぬ間に
I wanna hold you again

2番のサビだ。多忙な仕事をし、優雅な生活を送っていて、それなりに社会的地位も高いはずの主人公が、「君といれば他のどんなものも ささいな事に思えてくる」くらいに、浮気相手にされている「君」のことを愛しているのだ。「今までのキャリアもわかるけど ねぇ 何もかも委ねてくれないか」という歌詞から察するに、「君」は仕事が充実しているうえに彼氏もいる、しっかりとした女性だ。そんな彼女にまた「何もかも委ねてくれないか」というわがままな願いを抱いてしまう主人公はやっぱり情けないが、共感はせざるを得ない。「委ねる」という響きが「寂しげな街の灯が消えぬ間に I wanna hold you again」の2行と相まって、なんともセクシーだ。

 

明け方の歩道「じゃね またね」と彼女
走り去るTAXI
マンションのベランダに立って手を振る僕
たまらなく寂しい

結局ふたりは主人公の部屋で朝まで一緒に過ごしてしまったらしい。「君」が朝方に帰っていく場面でこの曲は締めくくられる。「じゃね またね」という軽い挨拶からは、「君」がまたすぐに主人公に会えると考えていることがうかがえる。このふたりの後ろめたく脆い関係性は、しばらく続いていくのだろう。それに対して主人公は、わざわざマンションのベランダに立って手を振って、名残惜しそうに「君」を見送っている。「たまらなく寂しい」という本音がつい出てきてしまう主人公はやっぱり情けないが、どこか憎めない。

 

Uh sunday night to monday morning from…
そして 今日も街は動き出す
行き交う人並み
from sunday night to monday morning…

街の風景の中に溶け込む、訳ありのふたり。ふたりが一緒にいられるのは、日曜日の夜から月曜日の朝までのわずかな時間だけ(それも、おそらく彼氏にバレないようにするために毎週会うわけにはいかないだろう)。それ以外の時間は「君」は彼氏のものだ。でもこの儚い一瞬だけは、自分のことだけを見ていてほしい。その間だけでも自分のものになってほしい。そんな主人公の気持ちを想像してしまう。

 

 

以上でMr.Children「クラスメイト」の歌詞解釈は終わりだ。解釈というより、ただの感想になってしまったが。具体性からありありと情景が浮かび上がってくる歌詞はとても秀逸だけれども、浮気というシチュエーションを想像しながら歌詞を読み取るのにえらく疲れた。この曲は歌詞の良さはもちろんだが、ボーカル桜井さんの気だるげな歌声から漂うえも言われぬ雰囲気があって初めて完成するものだと思う。ぜひ原曲を聴いてみてほしい。

 

書けない

最近、なぜかブログが書けない。


わたしが主にブログに書いていたのは、恋愛のことだった。以前、恋愛について語るブログを始めたきっかけについて、「喋れる人が少なくて、でも需要はあるようなことを語ろうと思うと、恋愛に行き着いた」と書いた気がする。別に日常のことや他に考えたことについて書いてもいいのだが、わたしはそれらをコンテンツになるほどに昇華することができないし、書くモチベーションも上がらない。やっぱり、単純に恋バナって面白い。恋愛というものは、人を目まぐるしく鮮やかな気持ちにさせるから。


自分のブログを見返してみると、今年の2月~3月にはそれなりに更新頻度が高かったのだが、最近は数ヶ月単位で書けていない。もちろん、ブログのほかに何かを書いているわけでもない。なぜこんなスランプに行き着いてしまったのだろうか。


Twitterで宣言したとおり、いまのわたしには恋人がいて、惚気には事欠かないしとても幸せである。その恋の話をすればいいのではないか、と言われそうだけれど、いざ書こうとすると全然書きたいと思うことが浮かばない。ここ数日前に、試しにいま自分がしている恋愛について書いてみたのだが、筆はまったく進まず、2時間かけた末に内容的にもクオリティという意味でもとても人には見せられないような代物ができあがってしまった。幸せだからこそ、書けないのであろうか。


そういえば、今年の2月~3月というと、嘘告白の元彼と付き合っていた時期と別れた直後であった。別に彼といた時間が幸せなものではなかったわけじゃない。どちらかといえばたぶん幸せなことの方が多かった。ただ、彼といると、なぜか言語化しがたい色々な感情が刹那的に浮かび上がってきて、わたしはそれを毎回心の中でぐしゃぐしゃに丸めてはゴミ箱に捨てていた。そのゴミをたまに拾い上げてはブログのネタにしていたのだ。よく言われる言葉だと「お気持ちになる」というやつに近いのかもしれない。彼はわたしを不思議な気持ちにさせる人だった。複雑で掴みどころのない、迷子になった感情。それを掴むために、必死で文章を書いていた。


あの2ヶ月弱の日々のどこまでが嘘で、どこまでが本当だったのだろうか、といまでもたまに考える。思えばあの人は本当によくわからなくて、でも一緒にいたいと思えるような人だった。憎たらしくて、でも愛しいと思うことをなかなかやめられなかった。別れて8ヶ月もして、ようやく気づいた。わたしに文章を書かせていたのは、他でもない彼だったのだ。

「酔っ払った君は特に可愛かった」

My Hair is Badの「グッバイ・マイマリー」という失恋ソングが好きだ。

初めて「グッバイ・マイマリー」を知ったのは、帰省した際に妹が「この曲がいい」と紹介してくれたときだった。検索してみたらYouTubeでライブの動画を見つけて、その曲に惚れ込んだわたしはそれまで「真赤」しか知らなかったマイヘアを一気に好きになった。それから今に至るまで、ずっと聴いている。恋人がいたときも、彼と別れたあとも。


「グッバイ・マイマリー」は結婚したいと思っていた相手が二人で暮らしていた部屋を出ていった、という曲だ。その中でも特に好きな歌詞がある。

「酔っ払った君は特に可愛かった」。

この曲は元彼のことを思い出させる。付き合っていた期間は短かったけれど、すごく好きで、結婚したいとさえ思っていた元彼のことを。

その元彼と付き合っていたとき、一緒にお酒を飲んだ帰りに、酔った彼が突然わたしに抱きついてきたというエピソードを、この歌詞を聴く度に思い出す。


「酔っ払った君は特に可愛かった」という歌詞のポイントは、やはり「特に」という言葉にあろう。いつもいつも「可愛い」と思っていて、その中で酔っ払った君は殊更によかった、という気持ちに深い愛情が溢れている。


ではなぜ酔っ払った「君」が特に可愛いのであろうか。酔っ払うことで普段の可愛さが強調されるとも考えられるし、酔っ払うといつもは見られないような表情が見られるのかもしれない。人によるけれど、お酒にはふしぎな力がある。


わたしの場合だと、彼のことをいつもいつも可愛いと思っていた。付き合う前から可愛い人だと思っていたくらいだ、付き合ったらますます可愛く目に映るに違いなかった。そんな彼が酔っ払って何をするかというと、他でもない、わたしに抱きついてくるという形で愛情を示してくれた。彼の本当の気持ちを感じられた気がして、それが嬉しかったのだろう。別れたあとでもなんだか嫌いになれない大切な思い出だ。


でも、幸せな時間はそう長くは続かない。幸せは脆く儚いものだ。だからこそ美しい。

「首都高は僕らに見向きもせずに流れて  同じように季節も流れてた」。

白馬の王子様

自転車。

それが母の、高校時代わたしが付き合っていた元彼に対しての、一番強い印象らしい。


たしかに彼は自転車通学をしていた。その地味なママチャリがちょっと似合っていたかもしれない。でも高校同期には自転車競技の選手もいたし、大学に入ってから、自転車でものすごく遠くに行く人とか、もっとガチのかっこいい自転車に乗っている人を見た。だからわたしには、母の元彼に対しての印象として、なぜ一番に「自転車」が来るのか、いまいちよくわからなかった。「チャリ」から「チャーリー」とあだ名をつけるほどに。


「みゅうにもきっと白馬に乗った王子様が現れるよ」と母は言った。どちらも友人で、母も知っているカップルの話をしていたときだった。〇〇ちゃんはいい彼女だね、本当にそうだね、なんて話をしていたときに、母は突然そんなメッセージをよこした。ううん、返事に困る。適当に「そう信じて頑張るよ」と返しておいた。

母からは「チャリに乗ってるかもしれないけど😅」という返事が来た。元彼のことを不意に思い出したせいか、いやにどきっとした。変な誤解を与えたくないので、とりあえず「😅」と同じ絵文字で返しておく。「めっちゃ歩いて来たりして」と母のメッセージは続く。完全に元彼のことだ。


母は復縁を望んでいるのかもしれないが、元彼の話をするのはもう勘弁してほしかった。わたしにはもう元彼に恋する気持ちはないし、元彼はわたし以上にきっとそうだ。でもある日急な坂道を歩いて下っていたとき、向こう側から急に坂道を上ってくる自転車が来た。ごく普通のママチャリだったのだが、それを見た瞬間に思い出した。わたしは高校時代、徒歩通学だったから、元彼と一緒に帰るときはよく元彼が駐輪場から自転車に乗って出てくるのを待っていた。駐輪場は坂の下にあったので、元彼が頑張って自転車を漕いで坂を上ってくるのを見ると、急いでてけてけと迎えに行ったものだ。そんな思い出が唐突にフラッシュバックして、わたしはよくわからない、不思議な気分になった。


わたしの王子様は何に乗って来るのだろうか。自転車かもしれないし、電車に乗って遠くから来るかもしれない。はたまた歩いて来るのかもしれない。うーん、どれもなんかちょっとダサいけど、王子様が本当に来てくれるなら、交通手段はどうでもいいや。いつになったらわたしの王子様は現れてくれるのかしら。